前文の意義

一般の人は、とかく前文を付けたがる傾向があるような感じがする。以前、ある偉い人が、要綱に前文を付けたいと言っていたこともあった。
前文は、法制執務的にはどのような意義があるのだろうか。塩野宏「制定法における目的規定に関する一考察」『法治主義の諸相』(P55)には、次のように記載されている。

目的規定と並んで、戦後立法の特色をなすものとして、制定文(前文)を置く例がみられた。その代表例は日本国憲法であるが、教育基本法(昭和22年)を最初として、その後も、国立国会図書館法(昭和23年)、日本学術会議法(昭和23年)のほか、農業基本法昭和36年)、観光基本法(昭和38年)、中小企業基本法(昭和38年)等の基本法が前文をもっている。そして、これについては、法制執務上も「特定の高い理想を掲げる法律等については、その制定の根本を表明する制定文が附されることが適当であろう」とされていたが、「制定文と目的規定のどちらを選択するかは今後に残された問題である」ともいわれていた(佐藤編・前出注(6)*199頁以下)。その後、制定文(前文)は通常の法律ではみられなくなり、基本法でも、障害者基本法(昭和45年)、環境基本法(平成5年)、科学技術基本法(平成7年)など、前文をもたない例が多くなっているが、近年、国会等の移転に関する法律(平成4年)、原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(平成6年)、高齢社会対策基本法(平成7年)など、前文をもつ法律が制定されており、如何なる場合に前文を付すかの基準は不明確である。

前文には、これといった明確な意義はなかなか見出せないといったところであろうか。
では、その代表例とされている憲法に前文が置かれた経過について、芦部信喜監修『注釈憲法(1)』(P73〜)には、次のように記載されている。

前文に関しては、マッカーサー草案が作成されるまでの経過はさほど錯綜していないようである。原案はハッシーにより作成され、それにその後の運営委員会において、平和的生存権について述べた第2段の末尾の文章……と普遍的な政治道徳の法則の遵守を述べた第3段……が加えられた。また字句・表現の修正も若干なされた。この前文の案には、アメリカの著名な諸文書や国際文書が参考にされた、とみられる。
周知の通り、マッカーサー草案が日本側に手渡されたのは1946(昭和21)年2月13日で、その後連合国最高司令官総司令部、いわゆる総司令部(GHQ)と日本側の間で種々やりとりがあり、結局2月22日の閣議マッカーサー草案の受入れが決定される。そこで政府はマッカーサー草案に基づく改正案の起草にかかるが、その最初のものが一般に3月2日案と呼ばれ、それが総司令部の督促に従い、3月4日に総司令部に提出される。この案では前文は削られている。その理由は大日本帝国憲法(いわゆる明治憲法)の憲法改正条項である73条、それによれば、憲法改正は勅令によってのみ帝国議会の議に付せられるが、その規定と「我等日本国人民ハ、……此ノ憲法ヲ制定確立ス」という前文が抵触すると考えられたからである。わが国のこのような立場は、明治憲法との連続性を確保しようとした総司令部の考えとは対立しないが、他面「日本国国民ノ自由二表明セル意思」により憲法はつくられるべき、とするポツダム宣言の要求には反するので総司令部の認めるところとならなかった。
こうして総司令部の要求から前文は改正案に盛られると同時に内容的に一切変更を認めないとされる。

これらの記載からすると、憲法の前文もGHQから押し付けられ、幾つかの法律にも書いてしまったので、法制執務的観点から意味を見出そうとしたけれど、なかなか難しいといったところだろうか。
なお、上記のGHQが前文の変更を許さなかった理由の1つに、同書(P74)では、細部の手直しという形で総司令部案の基本原則をなし崩しにされてしまうというおそれからであったということを挙げている。
したがって、行政を拘束するために基本原則等を前文に掲げるような場合には、前文もそれなりに意味があると言えるのかもしれない。ただ、基本法などは、基本原則等は本則で規定されることも多いので、あえて前文を付す意味も、その限りではなくなってきていることになる。
ところで、憲法の前文の意義については、同書(P76)には、次のように記載されている。

憲法前文は、一般に、二重の意義をもつといわれる。一つは政治的あるいは象徴的な意味であり、前文により導かれる憲法の主義や主張を、明文で語ることまたは語らないことによって、前文は明らかにし、場合によっては象徴化する。二つは法的意味であり、前文の規定全体あるいはその一部に法的価値が認められることにより生ずる。

後者の法的意味は、前文に限ったこととはいえないであろうから、前文独自の意義ということであれば、前者の政治的・象徴的な意味ということになろうか。ただ、あくまでも、政治的・象徴的な意味である。どうも、法制執務的には、プラスの評価もマイナスの評価もしかねる。
結論としては、私は、前文の意義について、今のところ全く意見を持っていない。条例の提案者(首長又は議員)が意味があると感じて書きたいと言うのなら、好きにすればいいというスタンスである。

*1:佐藤達夫法制執務提要』を指す。