「権利」

以前(2013年10月5日付け記事「子どもの権利擁護のための条例」)、「Rights」の訳語を「権利」とするのは正しくないといった趣旨のことを記載したことがある。
この「権利」という言葉について、井上ひさし『日本語教室』*1(P100〜)に次のように記載されていたので、取り上げておく。

明治の初め、福沢諭吉は、外国にある概念で日本にないものを漢字を2つ使って翻訳するという仕事を一所懸命やっていました。……
そういう例はたくさんありますが、問題は「権利」という言葉です。「ライト」という概念は日本にはなかった。そこで、福沢諭吉はさんざん考えて、『西洋事情』という有名な本のなかで、「訳字を以て原意を尽すに足らず」、つまり翻訳不可能だと述べています。「ライト」という、一番大事な、つまりこれで戦争が起こったり革命が起こったりする大変な言葉の翻訳を、諭吉は諦めたのです。そこへおっちょこちょいの西周*2が……私が訳してみせるというので、福沢諭吉を真似して、仏教用語のなかから「権利」という言葉を持ち出してきたのです。その結果、「ライト」は「権利」になってしまいました。
もともとの「権利」という言葉の意味は、「力ずくで得る利益」なのです。仏典や中国の『荀子』という道徳書などでは、「権利」は「権力と利益」の意味で使われています。それなのに西周さんは、「ライト」に「権利」を当てたわけです。ところが、その結果、「権利」というのはなんとなく悪いことだという感覚が、日本人のなかにずーっとしみついていくんです。「権利ばっかり振り回して」とか反射的によく言いますよね。
  (中略)
つまり、「それはおれの権利だ」と言うと、みんななんとなく、「義務だってあるんだぜ」とまぜ返したくなるでしょう。これは、語感の問題ですね。……当たり前のことを主張しているのに、「あいつは権利ばっかり言うからね」というふうに嫌がられることが多いと思います。

「権利」という言葉に関する考え方が人によって異なるのは、こうしたことに原因があるのだろう。

*1:この書籍は、hachiro86さんが取り上げていたのに興味を惹かれて読んでみたものです。hachiro86さんありがとうございました。

*2:にし あまね。江戸時代後期から明治時代初期の幕臣、官僚、啓蒙思想家、教育者、貴族院議員(Wikipedia)。